創業100周年記念コンテンツ
200年続く安心企業を目指して
中野倉庫運輸は2023年8月1日に、創業100周年を迎えることが出来ました。これもひとえに、皆様の永きにわたるご愛顧、ご支援の賜物と厚くお礼申し上げます。
今から100年前に小生の祖父、中野眞一郎が運送店を立ち上げ、父、中野順市が株式会社化をいたしました。この間には、戦前・戦後の厳しい時代から高度成長期、バブル崩壊などあらゆる波がありました。
日本経済新聞が1983年に企業30年説を唱えました。その30年説では最初の30年間は<小粒でも、生きが良い企業>、次の30年間は<強さを保持しながら規模の拡大>となっています。
弊社の最初30年間は小さくとも、しっかりとした組織、体制づくり(1920年代から50年代)を中野眞一郎がおこない、トヨタ自動車をはじめ優良な顧客との取引、故郷の高知県や親族から長期にわたって働いていただける優秀なスタッフを確保しました。また当人は同時に中央区区会議員や議長として活躍し、その結果として中野倉庫運輸も社会的な信用を得ることができました。
また、次の30年間(1950年代後半より80年代後半)は規模の拡大を図ることができました。南は九州、北は北海道までの支店網を構築することに成功し、北米にも進出しました。しかしながら、その間<強さを保持しながら>の目的は必ずしも達成できず、結果として11支店と実質140億円の借入金が残ることとなりました。
その後の30年間(80年代後半より2010年代)は体質強化(強さの再構築)を最大の課題として経営の舵取りをしてまいりました。「HOP STEP JUMP」をテーマに各種改善、改革に努めてきました結果、借入金は50%まで減少、一人当たり売上高、利益もこの向上することとなりました。経常利益に関しても2000年以降23年連続で黒字計上を実現しました。創立60周年は2012年に無事に迎え、昨年2022年には米国法人創立50周年。 8月1日には創業100周年を皆様と迎えることができました。
2020年からは新規投資を再開し、2021年に12か所目の支店、岐阜支店を来月には米国 VIRNIGA州に支店を開設します。
今後、日本国の人口減少により、規模の拡大は不必要となってきております。今後は会社の体力を高め、成熟度を増し、200年以上続く安心企業を目指していくべき努力をしていく所存でございます。
これからも皆様の変わらぬご愛顧、ご支援をよろしくお願い申し上げます。
代表取締役会長
中野 晋一
中野倉庫運輸創業100年のあゆみ
■ 江戸・明治時代
1750~60年頃 | 中野屋清五郎、土佐国宇佐村で鰹漁を始める(中野倉庫創業者、中野眞一郎の高祖父) |
1780~90年頃 | 山澤家、天明の大飢饉から逃れ千住宿に移住。副本陣「亀屋」を経営し、同時に運送業を始めたと推定される。(山澤家は中野眞一郎の妻てうの実家) |
1841年 | 中野清作誕生(中野眞一郎の祖父) |
1862年 | 中野直五右衛門(五代目)が苗字帯刀を許可される (中野眞一郎の曽祖伯父(曾祖母の兄)) |
中野俊三郎出生(中野眞一郎の父) | |
1870年 | 川口喜代衛出生(中野眞一郎の母) |
1895年 | 4月20日 中野眞一郎 出生(父 俊三郎、母 喜代衛) |
1899年 | 村井てう 出生(父 山澤喜一、母 村井千代) |
出来事 | ・天保の改革 ・ペリー来航 ・明治維新 ・大日本帝国憲法発布 |
■ 1920年代
1923年 | 8月1日創業 中野眞一郎の個人経営の下<中野運送店>を創業する。 | |
1926年 | 村井てう、眞一郎と結婚、入籍 | |
1927年 | 東京市より江東区枝川の埋め立て地の払い下げを受ける。同時期に、中央区(当時京橋区)内ヤマト運輸、渥美運輸、京橋運輸等も同地区に払い下げを受ける。 | |
出来事 | ・関東大震災 ・ラジオ放送やレコードが普及 ・ファシズムが台頭 ・世界恐慌 |
■ 1940年代
1945年 | 東京大空襲で神宮前(当時隠田)に疎開した書類等が焼却する。銀座の本部は焼け残る。 |
出来事 | ・太平洋戦争勃発 ・広島・長崎に原爆投下 ・ポツダム宣言を受諾、終戦 ・第一次ベビーブーム(団塊の世代生まれる) |
■ 1950年代
■ 1960年代
1960年 | トレーラー導入 | |
1962年 | 大阪府高槻市に大阪支店(現近畿支店)を設立する。 | |
1964年 | 東京都中央区に銀座本部(現本社)を設立する。 | |
1966年 | 愛知県知立市に名古屋支店(現中部支店)を設立する。 | |
1969年 | 神奈川県愛甲郡愛川町に厚木支店(現神奈川支店)を設立する。 | |
出来事 | ・東京オリンピック開催 ・ビートルズ来日 ・人類初の月面着陸に成功 |